ちょっとした認識の違いで有罪無罪の結論が逆転するケース【弁護士×ITストラテジストが解説】

リスクマネジメント

記憶や認識は曖昧であることもある

裁判においては、客観的な証拠だけでなく、当事者や目撃者の証言・供述が重要な証拠となることが少なくありません。防犯カメラ映像や物的証拠が存在しない場面では、当事者の語る内容が事実認定の大きな柱になります。そのため、「何を見たのか」「どう感じたのか」「どのように理解したのか」といった主観的な認識が、最終的な結論に強い影響を与えることになります。
もっとも、人の記憶や認識は決して万能ではありません。時間の経過とともに記憶は薄れますし、強い緊張や恐怖の中では知覚そのものが歪むこともあります。自分では確かに覚えているつもりでも、後から振り返ると細部が曖昧であったり、他人の話を聞くうちに記憶が書き換わってしまったりすることもあります。
しかし問題なのは、その曖昧な記憶の中に含まれる「ちょっとしたニュアンスの違い」が、法的評価を大きく左右する場合があるという点です。たとえば「ぶつかったかもしれないと思った」のか、「何かに乗り上げた気はしたが人とは思わなかった」のかという違いは、日常会話では些細な差に聞こえるかもしれません。ところが裁判においては、その差が故意や認識の有無を分け、結果として有罪と無罪を分ける分水嶺になることがあります。
そこで本稿では、交通事故における救護義務を具体例として取り上げます。事故後に現場を離れた行為が救護義務違反に当たるかどうかは、運転者がどのような認識を有していたかによって大きく左右されます。交通事故という身近な題材を通じて、供述の正確さがいかに重大な意味を持つのかを考えていきます。

事故を起こした場合には救護義務がある

自動車を運転中に歩行者や自転車と衝突し、相手にけがを負わせた場合、業務上過失傷害などの罪が成立し得ます。さらに重要なのは、事故を起こした運転者には法令上の救護義務が課されるという点です。これは、直ちに車を停止させ、負傷者の救護や警察への通報など必要な措置をとる義務を意味します。
しかし現実には、事故を起こした瞬間に強い恐怖や動揺に襲われ、その場から立ち去ってしまうケースが少なくありません。いわゆるひき逃げと呼ばれる事案の中には、「怖くなって逃げてしまった」という供述が見られます。事故直後は心拍数が上がり、正常な判断が難しくなることもあります。その結果、冷静であれば当然とるべき行動を怠ってしまいがちです。
もっとも、事故直後はパニック状態にあり、記憶が断片的になることも多いでしょう。「大きな音がした」「何かにぶつかった感触があった」といった曖昧な印象しか残っていないこともあります。それでもなお、供述においては可能な限り具体的かつ正確に、自らの認識を説明する必要があります。曖昧なままに話を合わせたり、推測で補ったりすることは、後に重大な不利益を招きかねません

法律の不知は有罪で揺るがない

事故後に現場を離れた運転者がしばしば口にするのが、「救護義務があることを知らなかった」という説明です。しかし、法律を知らなかったという事情は、原則として無罪の根拠にはなりません。これは法の世界では「法律の錯誤」と呼ばれる問題です。
法律の錯誤とは、自らの行為が違法であることを知らなかった、あるいは誤って理解していたという場合を指します。しかし、社会生活を営む以上、一定の基本的な規範に従うことは当然に期待されています。「人にけがをさせたかもしれないなら救助すべきではないか」という規範意識は、特別な法律知識がなくても理解できるものです。そのため、救護義務の条文を具体的に知らなかったとしても、「やってはいけないことではないか」という規範に直面していたのであれば、責任は免れません。
仮に「法律を知らなかった」と言えば無罪になるのであれば、誰もが同じ主張をするでしょう。それでは法秩序は維持できません。したがって、法律の不知は原則として処罰を免れる理由にはならないというのが、刑事責任の基本構造です。
救護義務違反の事案でも同様です。事故を起こしたという認識がありながら、「逃げてもよいとは思わなかったが、とにかく怖かった」という場合、それは心理的事情として量刑に影響することはあっても、犯罪の成立自体を否定する理由にはなりにくいです。ここでは、規範に直面していたかどうかが重要であり、単なる法律知識の有無は決定的な意味を持ちません。

「事故を起こしたと気づかなかった」のであれば無罪の可能性

これに対して問題となるのが、「事故を起こしたこと自体に気づかなかった」というケースです。たとえば夜間や悪天候の中で走行していた場合、視界や聴覚情報が制限され、通常よりも認識が困難になることがあります。路面の凹凸や落下物に乗り上げた感覚と、人に接触した感覚とを瞬時に区別することは、状況によっては容易ではありません。実際に車体が被害者に接触していたとしても、運転者がそれを人身事故であると認識していなかったのであれば、主観面の評価は大きく異なります。
このような場合に問題となるのが「事実の錯誤」です。事実の錯誤とは、犯罪の成立にとって重要な事実について誤った認識をしている状態を指します。救護義務違反においては、「事故を起こした」という認識が前提となります。もし運転者が本当に事故の発生に気づいていなかったのであれば、負傷者を救護すべきという規範に直面していないことになります。その結果、救護義務違反の故意が否定され、無罪となる可能性が生じるのです。
もっとも、ここでのポイントは「本当に気づかなかったのか」という点です。裁判では、単なる自己申告だけでなく、客観的事情との整合性が厳しく検討されます。たとえば、車体の損傷状況が明らかに大きい場合や、エアバッグが作動するほどの衝撃があった場合に「何も気づかなかった」という説明が通用するかは疑問です。また、衝突直後に急ブレーキを踏んでいる、バックミラーを確認している、周囲を見回しているといった行動があれば、事故を認識していた可能性が推認されることもあります。
さらに、被害者や目撃者の供述、防犯カメラ映像、ドライブレコーダーの記録なども総合的に評価されます。衝突音の大きさ、車両の揺れ方、運転者の表情や態度など、細かな事情が積み重ねられ、最終的な認定につながります。つまり、主観的な「気づかなかった」という言葉は、客観的証拠との関係でその信用性が測られるのです。
ここで重要なのは、事実の錯誤が認められるかどうかは極めて繊細な判断であり、ほんのわずかな事情の違いが結論を左右するという点です。「人だとは思わなかった」という一言と、「何かに当たったかもしれないと思った」という一言とでは、規範への接近度が異なります。後者であれば、「もしかすると人かもしれない」という可能性を認識していたと評価される余地が生じます。その差は小さく見えても、刑事責任の有無を分ける重大な意味を持ちます。
したがって、「事故を起こしたと気づかなかった」という主張は、単なる言い逃れではなく、法的には明確な意味を持つ論点です。同時に、それが認められるかどうかは、客観的状況との整合性にかかっています。主観と客観の交錯するこの場面こそ、認識の違いが有罪無罪を逆転させる典型例といえるでしょう。

供述調書の内容は慎重に吟味せよ

前章で見たように、事故の認識の有無という一点が結論を左右する以上、その認識をどのように供述するかは決定的に重要です。しかし現実には、取調べの場で深く考えずに話してしまい、その内容がそのまま供述調書として固定されることが少なくありません。人は強い緊張や不安の中では、早くその場を終わらせたいという心理が働き、曖昧な点を曖昧なままにしてしまうことがあります。
供述調書は単なるメモではありません。裁判において証拠として提出され、詳細に検討される正式な書面です。一度署名押印をすれば、その内容を覆すことは容易ではありません。「確かではないが、たぶん気づいていなかったと思う」といった表現が、「気づいていなかった」と断定的に整理されてしまうこともあります。その微妙な違いが、故意の有無の判断に直接影響します。
また、取調官とのやり取りの中で、質問の仕方によっては誘導的なニュアンスが生じることもあります。「かなり大きな音がしましたね」と言われれば、実際にはそれほど大きくなかったとしても、うなずいてしまう可能性があります。しかし「大きな音がした」という記載は、事故の認識を基礎づける事情として評価されかねません。自らの記憶に忠実であることが何より重要です。
虚偽の供述をすることは当然許されませんが、記憶が曖昧な部分については、その曖昧さを正確に表現する必要があります。「はっきり覚えていない」「当時は人だとは思わなかったが、不安はあった」といったニュアンスを丁寧に言語化することが、後の評価を左右します。断定できないことを断定してしまうことも、逆に自分に不利な推認を招くことがあります。
さらに、供述内容が事実の錯誤に関わる核心部分である場合には、弁護士に相談しながら整理することが望ましいでしょう。自分では些細と思っている表現の違いが、法律上どのような意味を持つのかを理解することは容易ではありません。専門家の助言を受けつつ、自らの認識を慎重に確認し、正確な言葉で供述することが、適正な判断につながります。
供述は単なる説明ではなく、法的評価の土台となる重要な材料です。ちょっとした言葉の違いが、有罪無罪を分ける境界線になることを自覚しなければなりません。だからこそ、供述調書の内容は形式的に確認するのではなく、一文一文を吟味し、自らの真意とずれがないかを慎重に確かめる姿勢が不可欠です

まとめ

本稿では、交通事故後の救護義務違反を例に、認識の違いが有罪無罪を分ける場面について検討しました。裁判では客観的証拠だけでなく、当事者の主観的認識が厳しく問われます。人の記憶は曖昧であるにもかかわらず、その曖昧さの中に含まれる微妙なニュアンスが、法的評価を大きく左右します。
法律を知らなかったという主張は、原則として責任を免れさせるものではありません。これに対し、事故そのものに気づかなかったという事実の錯誤が認められる場合には、犯罪の成立が否定される可能性があります。その違いは、「規範に直面していたかどうか」という点にあります。
そして、その判断の基礎となるのが供述です。取調べの場での何気ない一言が、後に決定的な意味を持つことがあります。曖昧な記憶をそのまま断定的に語ることも、安易に迎合することも避けなければなりません。虚偽は許されませんが、正確さを期す努力は不可欠です。
有罪か無罪かという結論は、劇的な証拠の発見によって決まるとは限りません。むしろ、当事者がどのような認識を抱いていたのかという、きわめて繊細な問題にかかっていることがあります。だからこそ、自らの言葉の重みを理解し、慎重に供述と向き合う姿勢が求められます
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