起業のアプローチ
起業を考える際には、最初から完璧な事業計画を作ろうとするよりも、事業を構築するための一定の順序を定め、その順番に沿って検討していくことが重要です。起業というと、「こんな商品が売れるのではないか」「このサービスなら面白いのではないか」といったアイディアから始めることが多いでしょう。しかし、思いついたアイディアを次々に並べていくだけでは、事業として必要な要素が整理されません。アイディアそのものが魅力的でも、誰に何を提供するのか、なぜ顧客が対価を支払うのか、どのように継続していくのかが曖昧なままでは、起業後の活動が場当たり的になってしまいます。
そこで、事業を構築する際には、一定の枠組みに従って検討することが望まれます。枠組みがあれば、思いつきだけで判断することを避けられますし、検討すべき事項の抜け漏れも防ぎやすくなります。さらに、事業を考える段階と、事業を具体化していく段階とで、何を重視するべきかを整理しやすくなります。起業では、アイディアの面白さだけでなく、顧客、市場、自社の能力、継続可能性など、複数の視点を順番に確認していかなければなりません。
その枠組みの一つとして、Will・Can・Mustを整理する方法があります。Willは「自分がやりたいこと」、Canは「自分ができること」、Mustは「社会や顧客から求められていること」を意味します。これらを整理することで、自分の希望や能力と、外部から求められているものとの関係を把握しやすくなります。起業する本人の思いだけに偏ることも、反対に市場の要求だけに流されることも防ぎやすくなるため、事業を考えるうえで有効な整理方法です。
ただし、Will・Can・Mustは、いつでも同じ重みで考えればよいものではありません。この枠組み自体が重要なのではなく、事業のどの段階で、どの要素を重視するかという使い方が重要になります。
起業では、考える順序を誤ると、本人にとっては魅力的でも市場では必要とされない事業になりかねません。逆に、検討の順番を整理すれば、限られた経営資源をより合理的に配分できます。重要なのは、思いついたアイディアをすぐに事業化することではなく、事業として成立する可能性を一つずつ確認しながら構築していくことです。そこで本稿では、起業にあたってどのような観点で事業を構築していけばよいかを解説することとします。
成功事例を模倣する
起業を考えるとき、多くの人は「まだ誰もやっていないことをやりたい」と考えます。既存の事業と同じことをするよりも、まったく新しい分野に挑戦したほうが、大きな成功を収められるように感じるからです。特に起業家自身が独自のアイディアを持っている場合、そのアイディアを世の中で初めて実現することに強い魅力を感じるでしょう。しかし、起業の出発点として未知の領域を選ぶことには、大きな負担があります。
誰も手をつけていない分野では、そもそも顧客がその商品やサービスに価値を感じるのかが明確ではありません。商品を作り、サービスを提供するだけでは足りず、それがなぜ必要なのかを顧客に理解してもらう必要があります。さらに、その価値に対して実際にお金を支払ってもらえる状態まで持っていかなければなりません。市場そのものが存在するかどうかも確認しなければならないため、事業開始後に必要となる説明や啓発の負担は大きくなります。
これに対して、すでに成功事例が存在する分野では、事情が大きく異なります。既存の商品やサービスに対して顧客が一定の価値を認識しており、対価を支払う習慣も形成されているのであれば、その分野にはすでに市場が存在しています。市場が存在するということは、顧客が何を求めているのかを確認しやすく、事業として成立するための基本条件も把握しやすいということです。
市場が拡大している分野であれば、新規参入者にも機会があります。既存事業者が存在していることは、一見すると競争相手が多いという不利な事情に思えます。しかし、顧客が価値を認識している市場であることのほうが、起業の初期段階では重要です。市場そのものを一から作る必要がないため、事業者としては顧客に価値を理解してもらうことよりも、既存の需要に対してどのように応えるかに経営資源を集中できます。
起業において重要なのは、「誰もやっていないこと」を実現することだけではありません。むしろ、すでに顧客が価値を認識している事業を参考にし、成立している市場へ入っていくことは、起業の不確実性を抑える合理的な方法です。未知の領域に挑戦すること自体が悪いわけではありませんが、最初から未知を選択することが必ずしも起業家にとって有利とは限りません。市場がすでに存在することは、それだけで起業における重要な土台となります。
ニーズ志向>シーズ志向
新しい事業が顧客から価値を認められるためには、顧客がその商品やサービスを必要としていることが重要です。どれほど高性能な商品であっても、顧客にとって必要性がなければ、購入や利用にはつながりません。事業として成立させるには、提供する側が「これは価値がある」と考えるだけでは不十分であり、顧客側が「これにはお金を払う価値がある」と感じる必要があります。
この点から考えると、新規事業ではニーズ志向を強く意識することが重要です。ニーズ志向とは、顧客が抱えている問題や不便、欲求などを起点として、それをどのように充足するかを考える姿勢です。最初に商品や技術を決め、それを誰に売るかを後から考えるのではなく、顧客が何を必要としているのかを把握し、その必要を満たすための手段として商品やサービスを設計します。
特に新規事業では、シーズの価値を顧客に理解してもらうまでに時間がかかることがあります。顧客自身がその必要性を認識していなければ、商品やサービスの性能を説明するだけでは購入につながりません。新しい価値を市場に浸透させるためには、顧客側の認識そのものを変える必要がある場合もあります。そのため、起業直後の限られた資金や人材を考えると、顧客がすでに感じているニーズに対応するほうが、事業を成立させやすいといえます。
ここで大切なのは、自分が何を提供したいかではなく、顧客が何を求めているかを出発点にすることです。起業家には、自分が長年培ってきた技術や知識を事業化したいという思いがあります。しかし、その思いが強すぎると、顧客の視点が後回しになる危険があります。顧客が必要としているものと、自分が提供したいものが一致しているなら問題ありませんが、一致していないのであれば、事業としての優先順位を考え直す必要があります。
新規事業では、顧客が何に困っているのか、何を不便だと感じているのか、何を得たいと思っているのかを起点として考えることが重要です。そのニーズを明確にしたうえで、それを充足する方法として自社の商品やサービスを位置づけます。事業の中心に置くべきなのは、自分が持っているものそのものではなく、それによって顧客のどのような必要を満たせるかという視点です。ニーズを起点に考えることで、提供する価値と顧客が感じる価値とのずれを小さくできます。
持続可能な事業にするためのポイント
新規事業を立ち上げる段階では、すでに成功している事業を参考にしながら、顧客が求めているものを端的に提供できる形を整えることが重要です。市場が存在し、顧客が価値を認識している分野であれば、事業としての出発点を作りやすくなります。また、顧客のニーズを明確に捉えていれば、何を提供すればよいのかも判断しやすくなります。
しかし、成功事例を参考にし、顧客ニーズを満たすだけでは、長期的な競争力を確保することは難しくなります。市場に需要があることが分かれば、他の事業者も参入してくるからです。顧客から見れば、複数の事業者が同じような商品やサービスを提供している場合、どこを選んでも大きな違いがない状態になります。その結果、価格や立地、広告量など、別の要素による競争が強まりやすくなります。
事業を継続していくためには、顧客ニーズを満たすだけでなく、「なぜ自社を選ぶのか」という理由を作らなければなりません。ここで重要になるのが、自社ならではの独自性です。独自性は、単に奇抜な商品を作ることを意味しません。商品、サービス、提供方法、接客、専門性、企業姿勢など、顧客が自社を選択する理由となる要素を明確にすることが重要です。
この段階で、Will・Can・Mustの考え方が有効になります。Willは自分が実現したいこと、Canは自分ができること、Mustは顧客や社会から求められていることです。顧客ニーズだけを追い続けると、競合と同じ方向に進みやすくなります。一方、自社のWillやCanだけを優先すれば、顧客から求められない事業になりかねません。三つの要素を組み合わせることで、顧客の要求に応えながら、自社の個性や能力を事業に組み込むことができます。
重要なのは、Will・Can・Mustを最初から同じように扱うことではありません。事業の土台を作る段階では顧客から求められていることを重視し、その土台ができたところで自社のWillやCanを強みに転換していくという考え方が有効です。顧客ニーズを無視して自分らしさを追求するのではなく、顧客に求められる領域の中で自分らしさを発揮することが、競争力につながります。
認知から定着へ
新規事業を立ち上げたとき、最初に直面する大きな壁は、自社や新しい事業の存在を顧客に知ってもらうことです。どれほど顧客ニーズを的確に満たしていても、顧客がその存在を知らなければ利用されません。新規事業では、まず認知を獲得することが重要になります。そのためには、自社が何を提供しているのか、顧客にどのような価値があるのかを、分かりやすく伝える必要があります。
ここではPR活動が欠かせません。顧客が抱えているニーズと、自社の商品やサービスによって得られる価値との関係を明確に説明しなければなりません。単に商品名やサービス名を知らせるだけでは、顧客は自分に必要なものかどうか判断できません。何が便利になるのか、どのような問題を解決できるのか、なぜ利用する意味があるのかを伝えることで、初めて関心を持ってもらえます。
新規事業の立ち上げ直後は、珍しさや新鮮さそのものが集客につながることもあります。顧客は新しいものに関心を持ち、試してみたいという気持ちから利用することがあります。しかし、物珍しさには限界があります。時間が経過すれば、その商品やサービスに対する新鮮味は薄れていきます。最初に訪れた顧客が、いつまでも同じ理由で利用してくれるとは限りません。
そこで、認知を獲得した後には、顧客を定着させることが重要になります。一度利用した顧客が再び利用するためには、「一度試してみたい」という気持ちとは別の理由が必要です。顧客にとって継続的な価値があり、競合する選択肢と比べても自社を選ぶ理由がなければ、顧客は容易に他社へ流れてしまいます。認知を得ることと、顧客に定着してもらうことは、同じ問題ではありません。
この二つの段階では、事業者に求められるものも異なります。認知の段階では、自社が提供する価値を分かりやすく伝えることが重要です。一方、定着の段階では、顧客が継続して選びたくなる理由を事業そのものの中に作り込む必要があります。つまり、顧客に知ってもらうための分かりやすさと、顧客に選び続けてもらうための独自性は、別々に考える必要があります。
ここでWill・Can・Mustによって整理した内容を活用できます。顧客から求められているMustを満たすことを土台としながら、自社がやりたいWillや、自社にできるCanを組み合わせることで、他社とは異なる価値を生み出せます。顧客の必要を満たすだけなら、競合事業者にも実現できる可能性があります。しかし、自社が持つ意思や能力を適切に組み合わせれば、顧客にとって「この事業だから利用したい」という理由を作ることができます。
新規事業では、認知を得ることがゴールではありません。認知によって生まれた最初の接点を、継続的な利用へとつなげることが重要です。そのためには、顧客が求めるものを満たすだけでなく、自社ならではの価値を明確にし、それを顧客に実感してもらう必要があります。認知から定着へ移行する段階でこそ、自社の個性を事業の中に組み込むことが重要になります。
まとめ
起業では、思いついたアイディアをそのまま事業にするのではなく、一定の枠組みに沿って検討することが重要です。特に、最初から「自分がやりたいこと」や「自分ができること」を中心に考えると、顧客が本当に必要としているものとの間にずれが生じる可能性があります。事業は自分のために存在するものではなく、顧客に価値を提供して対価を得ることで成立するため、起業初期には顧客側の視点を重視する必要があります。
その意味で、すでに顧客が価値を認識している成功事例を参考にし、既存の市場に参入することは合理的な方法です。また、顧客のニーズを起点として、その必要をどのように満たすかを考えることも重要です。自社が保有する技術やノウハウを出発点とするのではなく、顧客が必要としているものを明らかにし、それを満たすために自社の資源を活用するという順序が、事業を成立させるうえで有効です。
一方で、顧客ニーズを満たすだけでは、競争の中で長く選ばれる事業にはなりにくいものです。市場が存在することを確認し、顧客の要求に応える事業を構築した後には、自社ならではの独自性を組み込むことが求められます。ここでWill・Can・Mustを活用することに意味があります。顧客から求められるMustを土台にしながら、自分がやりたいWillと、自分ができるCanを掛け合わせることで、他社との差別化を図ることができます。
つまり、Will・Can・Mustは起業において重要な考え方ですが、三つを最初から同じ重みで扱えばよいわけではありません。起業初期には顧客が求めるものを重視し、事業の基礎を作った後に、自社のWillやCanを独自性として活用することが重要です。考える内容だけでなく、考えるタイミングまで意識することが、起業を成功へ近づけるポイントになります。
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